【源氏物語】⑨「絵合・松風・薄雲」あらすじ&ゆかりの地巡り|わかりやすい相関図付き

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2024年の大河ドラマは第63作『光る君へ』。時代は平安、主人公は紫式部。『光る君へ』では、藤原道長との出会いにより人生が大きく変わることとなる紫式部の人生が描かれています。

たまのじ

紫式部を演じるのは吉高由里子さん。藤原道長は柄本佑さんが演じます。

私は『源氏物語』を読み始めました。『源氏物語』は紫式部の唯一の物語作品。せっかくなので、『源氏物語』を読み進めるのと並行して、あらすじや縁のある地などをご紹介していこうと思います。これを機に『源氏物語』に興味を持っていただくことができたなら、とても嬉しいです。

※和歌を含め、本記事は文法にのっとっての正確な現代語訳ではありません。ご了承ください。

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▼巻ごとのあらすじを中心に、名場面や平安の暮らしとしきたりを解説。源氏物語が手軽に楽しくわかる入門書としておすすめの一冊! 

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目次

第17帖 絵合

前斎宮の入内

藤壺の尼宮は、前斎宮(六条の御息所の姫君)の入内を源氏の君に催促します。このことを知った朱雀院は残念に思いますが、入内当日には見事な衣装の数々や化粧箱などを心をこめて用意しました。
それを見て、源氏の君は「伊勢下向のときに院が斎宮に抱いた恋心が、斎宮が帰ってきてやっと成就するはずだったのに、弟帝に入内してしまうなんてどう思っていらっしゃるだろう。私はどうしてこんなことを思いついて、院の心を苦しめ悩ますのだろうか。」と思い悩みます。そして前斎宮が、年も恰好もお似合いの朱雀院ではなく、九つも年下の冷泉帝の妃となることを快く思っていないのではないかと源氏の君は不安になるのでした。

たまのじ

心の優しい朱雀院。そんな兄をつらい目に合わせてしまったことを、源氏の君は辛く思っているのです。

別れ路に添へし小櫛をかことにて遥けき仲と神やいさめし
“あなたが伊勢へ行く時に「ふたたび帰らぬように」と私が小櫛を挿したから 神はあなたと私を引き離すのでしょうか”

朱雀院

別るとて遥かに言ひし一言もかへりてものは今ぞ悲しき
“「帰るな」と遠い昔におっしゃった一言が 帰京した今となってはとても悲しく思えます”

伊勢の斎宮

斎宮が伊勢に下向するに先立って臨む出立の儀式で、帝が斎宮の髪に黄楊の櫛(別れの御櫛)を挿す場面がありましたね。(第10帖「賢木」)その儀式で帝は斎宮に「京(みやこ)の方(かた)に赴きたまふな」と言う決まりがあります。世俗と神の領域の別離を象徴する儀礼なのです。

前斎宮は夜が更けてから参内されました。とても奥ゆかしく小柄でか弱そうな様子に、冷泉帝はとてもきれいな方だと思います。帝は権中納言(前の頭中将)の姫君・弘徽殿の女御とは親しい間柄なので気がねなく接していますが、前斎宮はとても落ち着いた方なので気後れするようです。源氏の君にも丁重に扱われている前斎宮を軽々しく扱うことは出来ないと思っています。
権中納言は、娘である弘徽殿の女御をゆくゆくは中宮にしたいと思っているので、前斎宮が娘と同じように仕えることにやきもきするのでした。

たまのじ

女御の中から一人だけ選ばれるのが中宮です。

絵の収集合戦

冷泉帝は絵に興味があり、誰よりも上手に絵をお描きになります。斎宮の女御もとても上手にお描きになるので、斎宮の部屋に行っては絵を描き合っています。斎宮が絵をお描きになる様子がとてもかわいらしいので、斎宮へのご寵愛がどんどん深まっていきました。
それを聞いた権中納言は、負けん気な性格なので、絵の上手な者たちを集めてすばらしい絵を上等な紙に描かせます。趣向を凝らした絵なので、帝は絵を見ようと弘徽殿にも通われるようになります。帝が斎宮にも絵を見せようと持って行こうとするのですが、権中納言は差し上げようともしません。

たまのじ

権中納言は、源氏の君に負けるものかと張り合う性格でしたね。こんなところにも負けん気の強いところが出ています。

源氏の君は「権中納言の大人気のない性格は相変わらずだな」と笑い、二条院にある古い絵や新しい絵が入った厨子をぜんぶ開けて、紫の上と一緒に選びます。ちょうどいい機会だと、須磨と明石にいた頃の日記の箱を持って来させて、紫の上にも見せます。当時の事情を知らずに見た人でも心を打たれるような絵なので、二人にとってはより悲しく映ります。源氏の君は、これらの絵を藤壺の尼宮にも見せたいと思い、そして明石の君はどうしているだろうかと思いやるのでした。

一人ゐて嘆きしよりは海人の住むかたをかくてぞ見るべかりける
“ひとり京に残って悲しんでいるより 一緒に行って海女の住む海辺をこうして見ていたかったです”

紫の上

憂きめ見しその折よりも今日はまた過ぎにしかたにかへる涙か
“つらかったあの頃よりも この絵を見てあの頃を思い出した今日の方が いっそう涙があふれます”

源氏の君

源氏の君も絵を集めていると聞いて、権中納言はもっと熱心に絵を集めます。
それが三月頃で、空もうららかに人の心も穏やかであらゆるものに風情のある季節だったことに加え、宮中でも特に行事がなかったので、妃たちは絵を楽しんで過ごしています。源氏の君は、帝にもより多くの絵を楽しんでいただきたいと思い、もっと気合を入れて絵を集め始めました。
梅壷の斎宮の女御は、昔の物語で名高く趣のあるものを、弘徽殿の女御は、当時の新作で興味深いものを選んで描かせていたので、見た目の華やかさでは弘徽殿の女御の絵の方が勝っていました。
帝の女房たちもそれぞれの絵を評定し合っていました。

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▼姫君はネコ、殿方はイヌのイラストで、物語の全体像を分かりやすく解説!当時の皇族・貴族の暮らし、風習、文化、信仰などについても詳しく紹介されています。

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絵合わせ開催

その頃参内していた藤壺の尼宮は、あれこれと女房たちが絵を評価し合っているのを聞いて、左・梅壺の女御(斎宮)側と、右・弘徽殿の女御側にグループ分けをしました。評価し合う人たちは物知りな人たちだったので、そのひとりひとりの言い分が面白く、藤壺の尼宮は興味深く聞いています。
源氏の君はこのようにそれぞれが争い騒ぐ様子を面白く思い、「いっそ帝の御前でこの勝負を決着させましょう」と提案しました。
源氏の君は梅壺の女御(斎宮)側に、権中納言は弘徽殿の女御側に協力します。そして評判を聞いた朱雀院は梅壺の女御に絵を贈るのでした。

月耕『源氏五十四帖 十七 絵合』 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

いよいよ絵合わせの日が来ました。帝のお召しがあって、源氏の君と権中納言も参内します。
絵合わせが始まります。梅壺の女御からも弘徽殿の女御からもとてもすばらしい絵が出され、なかなか勝負がつきません。
判定がつかないまま夜になりました。最後の勝負になったとき、梅壺の女御から源氏の君が描いた「須磨」の巻が出されたので、権中納言は動揺します。弘徽殿の女御も最後の勝負のためにとっておきの絵を用意していたのですが、源氏の君のようなすばらしい名手が心の限りを尽くして静かに描いた絵に勝てるはずもありません。
皆、涙が止まりません。その絵を見ると、須磨での源氏の君のわびしい暮らしや悲しい気持ちなどが手に取るようにわかるので、今まで出された様々な絵に対する感動はすべてこの絵に奪われてしまいました。そして梅壺の女御が勝ったのでした。

こうした些細なことにつけても、源氏の君が梅壺の女御の肩を持つので、権中納言は「帝のご寵愛が梅壺の女御へ向くのでは」と心配しますが、もっと細やかなご寵愛が弘徽殿の女御に向けられているので大丈夫だろうと思い直します。
源氏の君は、この世は無常だとずっと思っていたので、帝がもう少し成長されるのを見届けてから出家しようと決めていました。山里の静かな土地を手に入れて御堂を造り、仏像や経典の準備もしているようですが、まだ幼い子たちを思うように育て上げたいとも思っており、すぐにこの世を捨てることはなさそうです。

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▼訳・瀬戸内寂聴の「源氏物語」は、比較的わかりやすい文章で書かれているので、源氏物語を読破してみたい方におすすめ。全十巻からなる大作です。巻ごとの解説や、系図、語句解釈も付いています。

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清凉寺(嵯峨釈迦堂)

清凉寺とは

清凉寺は京都市右京区にあるお寺。「嵯峨釈迦堂」として親しまれています。本尊は釈迦如来。

もともとは光源氏のモデルになったと言われる源融(みなもとのとおる)の山荘である棲霞観があった場所です。源融の死後に阿弥陀三尊像が造られ、それを安置した阿弥陀堂を棲霞寺と呼びました。

その後、新堂が建てられ、等身大の釈迦像が安置されます。さらにその後、東大寺の僧である奝然(ちょうねん)が宋の仏師に釈迦如来立像を模刻させ、その像を弟子の盛算が棲霞寺の釈迦堂に安置したのが清凉寺の始まりとされています。

源氏物語の『絵合』『松風』などの帖で、光源氏が嵯峨の地に御堂を建立しますが、その「嵯峨の御堂」のモデルになった場所が、清凉寺です。

仁王門(京都府指定文化財)

京都府指定文化財となっている仁王門。両脇には朱色の阿吽二体の仁王像が構えています。

嵐山渡月橋からまっすぐ北へ20分ほど歩くとこの仁王門に着きます。嵯峨野のちょうど真ん中に位置し、「嵯峨野の顔」とも称されます。

たまのじ

渡月橋からここまで来る途中には、お店がいっぱいありますよ♪

本堂(釈迦堂)(京都府指定文化財)

釈迦堂は、清凉寺本尊である三国伝来生身釈迦如来像(国宝)を安置する本堂。正面上方の横木には、日本黄檗宗の祖である隠元禅師筆の「栴檀瑞像」の額が掲げられています。

阿弥陀堂

本堂の東には阿弥陀堂があります。嵯峨天皇の皇子である左大臣・源融の山荘・棲霞観の名残の堂です。現在の建物は文久三年(1863)に再建されました。

霊宝館

阿弥陀堂を奥に進むと、霊宝館があります。ここに収蔵されている国宝・阿弥陀三尊坐像(旧棲霞寺本尊)は、清凉寺最古の像です。この像は源融が亡くなる直前に自分の顔に似せてつくらせたと言われており、「光源氏写し顔」とも言われています。

※霊宝館は4・5月、10・11月のみ特別公開されています

源融の墓

仁王門を入って左手にある多宝塔の奥に、源融(みなもとのとおる)の墓があります。宝篋印塔です。

光源氏のモデルのひとりと言われている源融。嵯峨天皇の第12皇子で、河原院、河原大臣とも呼ばれています。京都六条に「河原院」という邸宅を持っていましたが、その邸宅は光源氏がのちに邸宅とする「六条院」のモデルのひとつだと言われています。

源融は、小倉百人一首では河原左大臣の名で知られています。

陸奥(みちのく)のしのぶもぢずり誰(たれ)ゆゑに乱れそめにしわれならなくに
“陸奥の織物「しのぶもじずり」の模様のように心が乱れているのはあなたのせいなのですよ”

「小倉百人一首」河原左大臣

清涼寺
住所:京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町46
公式サイト:HOME | 清凉寺(嵯峨釈迦堂) (seiryoji.or.jp)

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